本日の記事のタイトルをしっかり嚙み締めたいと思います。
日経新聞より。
(会員限定記事となっております。ご了承ください)
森林貴彦氏、と言えば、夏の高校野球の優勝校、
慶応義塾高野球部の監督です。
同チームで、丸刈りでない高校生が笑顔でプレーする姿が
新鮮に映った方も多かったかもしれませんね。
今回ご紹介する記事は、森林氏へのインタビューです。
「夏の甲子園3回戦の広陵(広島)戦で、初回に丸田湊斗選手が三塁盗塁を決めて先制したが、サインは出していなかった。彼が自分で決めた。三盗も選択肢として準備していたが、初回から(危険を冒す)サインは出せない。私よりよほど度胸、判断力がある。勇気も要るし、根拠がないと走れない。これからもそういう場面に出合いたい」
自ら考えて行動する、という姿が求められていることは
どの学校の先生方もご承知だと思います。
しかしそのことがどこまで腑に落ちているか、
そしてどこまで教育活動に反映させることができているかは、
教職員によって大きな差が生まれているようにも感じます。
森林先生のお話の中で、ひょっとするとこれは大きな影響があるのでは、
と感じたのが以下のコメントです。
「言葉には気を使っている。準々決勝の沖縄尚学戦は五回まで0-2の劣勢。前半戦終了時に『第1試合は完敗だから、第2試合を頑張ろう』と言った。同じ言葉ばかりだと、選手はまたかよ、という顔をする。新鮮な言葉がないか試合中に考えていた。あれでみんな『これからだ』となったのか、六回に逆転できた」
「ミーティングでだらだらしゃべりたくないので、試合ごとに四字熟語でテーマを伝える。『徹頭徹尾』とか『勇往邁進(まいしん)』とか。甲子園の決勝は『大願成就』。これしかない、と一番簡単に決まった」
生徒に考えさせるためには、先生がそれ以上に考えないといけない、
という当たり前のことに、改めて気づかされます。
日常に追われる中で、果たしてそういう意識や言動が実現できているか、
とふりかえるだけでも、教育活動にいい影響があるようにも感じます。
そして、話題になった自由な髪型については、こうおっしゃっています。
「いまだにそんなことが話題になるのかと残念に思う一方、これを入り口に(変化への)議論が進めばそれでいい、と思った。問題は髪形そのものより(無思慮に前例に従う)思考停止、旧態依然、上意下達の部分。高校野球はこういうものだという枠を誰かがつくり、枠の中でずっとやってきた。今年の優勝で、一石を投じることはできたかと思う」
「高校野球には堅苦しい部分、個性や自由が認められづらい部分がある。親の負担も大きく、(子どもに)野球が選ばれにくくなっている。甲子園は盛り上がっているようにみえて、全国の野球部や部員の数は減っている。このままの形では続かない。高校野球はスポーツの枠を超えて文化として定着し、変えるのは大変だが、我々が変われば人の育成方法なども変わるきっかけになるかもしれない。社会的な意義は大きい」
体育系の部活動には、校則等の縛りの強さに加え、
勝ちを優先するあまり、人間的成長、
すなわち本来教育において大切にすべきことが置き去りにされている、
といった問題点が指摘されることも多くあります。
この点についても、森林先生は至極もっともなご発言をされています。
「(打者が横目で捕手の位置を確認する『カンニング』は)今年の甲子園でだいぶ減ったと感じたが、ゼロではない。チームではなく選手個人の問題だと思うが。高校野球の2年半は短く指導者も時間がない、急いで詰め込まないと、と思うと無理が出る。体罰を受けて育った選手が指導者になって、同じことをする。負の循環を今、食い止めないといけない」
「野球がどういう人材を社会に送り出せるか、野球型の思考が今後の社会にどうマッチするのか考えると、危機感を覚える。勝つために手段を選ばないといった思考が、高校生以下の世代でも、ゆがみとして出ている。そこで打ち出したのが『成長至上主義』。ただただ勝利を目指して頑張ろう、ではなくて、一人ひとりが人間的に成長し、周りも成長させる。選手としての成長、人間としての成長が車の両輪となったら強い。それによって、実は勝利にも近づくのではないか」
貴校園での教育活動は、最上位の目的である
「子どもの成長」に資するものになっているでしょうか。
いくら技量が向上しても、
その技量を支える人格という土台がないがしろになっていれば、
ささいなことで人は崩れてしまうもの、ではないかとも思います。
それぞれの活動が目的にかなうものになっているのか、
改めてご確認いただければと思います。
(文責:吉田)