真意がどこにあるのか、しっかり理解しておきたい発言だと感じました。
日経新聞より。
(会員限定記事となっております。ご了承ください)
タイトルにあるのは、この3月、2040年以降の高等教育の将来像を議論する
「国立大の学費を年150万円に上げるべきだ」
と提言したことを指しています。
現在の学費から実に3倍程度の値上げとなる金額水準。
なぜこういう提言になるのか、記事をたどってみます。
まずは、高等教育になぜお金がかかるのか、という点について
伊藤氏はこう述べています。
「科学技術は進歩を続けている。特に生成AI(人工知能)は今後一層、正確な文章を作るようになるだろう。科学技術やAIをしのぐ人材を輩出する高等教育が求められている」
「日本の大学生は授業以外で勉強する時間が非常に少なく、特に文系は3年生から就職活動も活発化する。このような教育環境では高度人材は育たない」
「新卒の人材を企業が鍛えれば良いというモデルは破綻していく。もっと大学の教育にお金を使うべきだ。そうしなければ国力が保てない」
うーん。私にはよく分かりません。
高等教育の重要性は高いと思ってはいますが、
科学技術「をしのぐ」人材を輩出する高等教育、というのが理解できずにいます。
そして、タイトルにつながる話としては、
「大学教育にお金を使わないと国力が保てない」
という論が仮に正しいとしても(国力という狭い視野でいいんでしょうかね)、
だから学費を上げるべき、とはむしろなってはならないようにも思います。
さらに、提言の本丸である「150万円」という金額の根拠については
こうおっしゃっています。
「高度な大学教育を実施するには、学生1人当たり年300万円の収入が必要になると試算している。理系学部をもち、スポーツ施設も備えるとなれば、300万円は不可欠だ」
「国立大の学費の標準額は年53万5800円。国から平均して年230万円程度の公費支援があるため、1人当たりの収入は約290万円になる。国の運営費交付金は十分ではなく、教育水準を高めるには学費を上げるしかない」
「国立大の学部生は全体の16%だ。その分の学費を無条件で他の国民が持ち続けるのが正しい姿とは思えない。受益者負担の原則で、余裕のある人には学費をしっかり払ってほしい。経済的に少しでも困る人には、給付型奨学金を充実させるべきだ」
「高等教育の質を高める上で何ができるのか踏み込んだ議論をしていくため、あえて『150万円』という数字に言及したところもある」
さらに、こんなご発言も掲載されています。
「国公立大に公費が投入されるのは当然のことだ。問題は自己負担の額であり、これが平準化されれば国公私立を問わず、健全な協調と競争が促されることになる。競争の中で、生き残ることが難しくなる大学は出てくるが、自然な淘汰はやむを得ない」
このたびの提言をこうやって見てきますと、
その根っこは大阪府の高校授業料完全無償化とよく似たものを感じてしまいます。
つまり、公立校も私学とともに自由競争させ、
淘汰されることによって投入される税金の絶対額は減る、と。
公立の学費が上がれば、私学にとっては公立との競争環境が望ましく変化する、
と皆さんはお考えになりますでしょうか。
私自身、学校というしくみは同じでも、
公立と私立には役割の差がある、と考えています。
公立校はあくまでも標準的な教育を小さい負担で実現し、
教育を受けたくても受けられない人をいなくするための機関。
一方、私学は先進的、先鋭的な教育を相応の負担で実現し、
より高度な教育ニーズに応える機関。
私の発想からは、公立校の授業料を上げるということは
それこそ国力を下げてしまう危険性があるように思えてなりません。
現在の日本の文教予算は5兆円ほどです。
しかもここ20年以上、同水準程度で推移しています。
国家予算全体は約100兆円ですので、概算でもたったの5%。
厳密に計算すると、教育に回されるお金の割合はもっと低く、
世界最低水準であることは既に皆さんもご存知の通りです。
果たしてこの状況で学費を上げることが正解なのか。
皆さんはどうお考えになりますか。私は決してそうは思わないのですが。
(文責:吉田)