私自身、以前から少し疑問に感じていた点です。
「面倒見」が良いのは果たしていいことなのか。日経新聞より。
(会員限定記事となっております。ご了承ください)
「私たちの学校は生徒さんを最後までしっかりとサポートするので、ご安心ください」。夏休み中にもかかわらず、ある私立高校の先生が汗だくで学校案内などを届けに来てくれた。
頭が下がる思いがしつつ考え込んでしまった。今春この高校に進学したソウタ(仮名)の話を思い出したからだ。「面倒見がよいと聞いてましたが管理教育になっています。言われた通りやっていれば大学には受かるでしょうが、課題をこなすのに精いっぱいで……」。元気がなかった。
実は、上の文章にはさらに続きがあります。
そこにはこう書かれています。
ソウタの母親は「これだけやってくれて安心です」と話すが、合格実績は出ても、生徒の主体性は伸びないだろうと感じる。
そう、保護者はこれを望んでいるケースがあるのでややこしいんだ、
とおっしゃる先生方はきっと多いでしょうね。
そして、過保護に育てて合格実績を出すことを優先せねばならない、
私学側の事情もきっとあることでしょう。
ですが、生徒自身に考えさせることなしに社会に巣立っていくのは
なんとも寂しいことだと感じます。
せっかく学校という「社会のリハーサル」の場を経ていながら、
そのリハーサルが全くなされないわけですから…
この記事の執筆者は学習塾関係者ですが、こうも書かれています。
塾にも責任がある。面倒見という名目で過剰なサービスを提供し、それに慣れさせてしまっている。
そこで、私の教室では「子どもの成長につながるかどうか」を基準に講師がやること、やらないことを決めている。
高校生も対象の塾だが、中学生は高校入試が終わると全員「卒塾」させる。私たちの教育の力を試すためだ。サポートを求めて戻ってくる生徒もいるが、依存させるつもりはない。
学習塾の中にもこういったことを自覚されている例があるとすれば
とてもよいことだと私自身は感じます。
私学では、教員の転勤がないこともあって、
卒業生が戻ってくると大いに喜ばれることを見聞きします。
もちろん、学生時代があってこそ今の自分がある、
と感じてもらうことは、学校にとってこの上ない喜びでしょう。
ただ、生徒に生涯慕われることが最重要課題になってしまうのは
決して望ましいことではない、とも思います。
むしろ、社会での活動が楽しく意義深いために、
母校に顔を見せる暇などないんだ、という卒業生のたくましさこそが
学校にとっての財産になるような気もするのです。
生徒が自ら考え、自ら生きていく力を身に付ける。
貴校園がそのような場になることを心から願っています。
(文責:吉田)