本日はニュースをちょいと離れまして、先日私が体験した出来事をお伝えします。
以前はこのブログでそういう話も載せていたのですが、最近めっきり減っていましたので、実に久しぶりの万感記となります。
この間の日曜日、あるボランティア活動?をして参りました。
奈良県内の高校生が一堂に会し、日ごろ鍛えた弁論の技術を競う、という場です。
私自身、学生時代はずっと体育会系に所属してきたこともあり、文化部の活動自体が初体験。
しかも弁論という、私の人生史上おそらく接点を持ちにくいジャンルに、あろうことか「審査員」として関わることになりました。
なぜ審査員に?ということを話しだすと長くなってしまいますので、それはさておき。
私は弁論の審査ができる技量はもともと持っておらず、普段の仕事で学校に関わらせていただいているとは言え、それはあくまでも「経営」の話。
そして今回、その弁論大会が行われたのは県立高田高校で、普段お邪魔する私学ではなく、これらのいろんな条件が重なり、緊張感はいやがおうにも高まります。
セミナー講師をする以上の緊張感を味わいつつ、何の予備知識もないままに審査、というのはあまりにも生徒さんたちに失礼だと思い、審査委員長さんやベテラン審査員さんに手ほどきを受け、いざ審査。
弁論大会には「基準弁論」というものがあり、競弁者(弁論を競い合う生徒さんのこと。つまりエントリー選手、ですね)ではない生徒さんがまずひとつ、弁論を先に披露します。
その基準弁論を聞いて、審査員はそれを審査し、別室へ。その別室では、審査基準のすり合わせを行うのです。ほ、本格的や!!と、私の緊張感はまた1段階アップ。
その基準弁論の審査で、私はこの日一番の驚きがありました。
それは、
「弁論は、朗読ではない」
ということです。
弁論は自己主張であればいい、と私は当初思っていました。
そして、主張する内容を整え、原稿にし、それを感情豊かに読み上げるもの、というような感覚があったのです。
ところが、審査委員長から「原稿見たら基本的にはアウト」と聞かされた途端、その求めるレベルの高さに圧倒されてしまいました。
確かにその後、各生徒さんの様子を見ていると、基本的には原稿をすべて暗記してきている様子。
演台には原稿を置いているものの、その原稿を見ないようにしながら、まっすぐ前を見て弁じる競弁者たち。
その様子は体育会系が抱きがちなおとなしい文化部のイメージでは全くなく、まさに競技としての弁論でした。
一方で、この弁論大会に向けて、どの程度準備をしてきたのか、という点については生徒さんごとに差を感じたのも事実です。
もちろん、日常の学校生活の中で時間を縫い、準備をするのは並大抵のことではないでしょう。
それでも、何か目標に向かって努力することの大切さは、こうやって大会に臨む子供たちがそれぞれに体感し、今後の人生につなげていってほしいと強く願いました。
それにしても、学校という場は本当に貴重なものです。
弁論を競い合う場があるということ、さらにその場に立つための練習ができる場があるということ。そのどちらもが学校の存在なしには考えられないような気がします。
この学校という場をいつまでも守らねば。
また自分の仕事の重要性に気付くことができました。