個人的にはちょっとビックリするような、そんなニュースが配信されていましたので紹介させていただきます。
記事の内容は、大阪市立小中学校で4月に実施した全国学力テストの学校別の平均正答率などの結果を、校長判断で原則公表するう規則で定める、ということを大阪市教育委員会が決定した、というもの。
あれ?公表禁止じゃなかったっけ?と思って記事を読み進めると、驚きの論法が展開されていました。
すなわち、
・文部科学省の実施要領では、『自治体』が学校別結果を公表することを禁じている
・一方、同要領では『学校が独自に』公表することは学校の判断に委ねられている
ので、今回はあくまで校長判断だから、禁じられていることをやるわけではないよ、ということのようです。
ただ、市教委は「規則に違反すれば処分対象になりうる」とも説明しているそうです。それってホントに校長判断と言えるのでしょうか…?
記事にも『事実上の公表義務化』と書かれています。
脱法行為??と思ってしまいそうになるのですが、どうなんでしょうね。
そんな本件の是非はさておき、学力テストの結果公表のニュースを見るたびに感じることがひとつ。
それは「『公表』という名の罰則はモチベーションを高めるのか?」ということです。
私が中高生だった頃、私の母校では、校内テスト・外部模試等の種類を問わず、テスト結果の上位30名程度は教室にその名前と成績が貼り出されました。
当時は現在と違って、学校でも完全な競争社会が展開されていましたから、何でもかんでも順位づけして、それを公表するのが当たり前、といった時代でした。
が今から振り返ると、そのことで誰が利益を享受していたか、と言えば、貼り出された紙に名前が載っているわずかの成績上位者のプライドを一瞬くすぐるのみであって、仮にそれが彼らの短期的なやる気アップにつながったとしても、長い目で見ればむしろそれが「目に見える評価しか受け入れられない」という寂しい心理状態を生み出しているのではないか、とすら思ってしまいます。
さらに悪いことに、その紙に結果が載らない生徒たちは、毎度辛い想いでそのことを受け止めていたことでしょう。
その掲示物のおかげで「次は絶対上位に食い込んでやる!」というふうに奮起できるのはむしろ成績上位に近い生徒であって、決して全体の底上げには役立っていなかったような気がします。
最近話題になっているこの学力テストの結果公表に関しては、「公表することで下位校の奮起を促す」ということが当然のように主張されています。
が先ほど思い返した私の感覚からすれば、下位校は屈辱を味わうばかりで、意図はまさに机上の空論、まるで見せしめのための公表でしかない、とすら感じてしまいます。
すなわち、公表というしくみが公表の対象となる主体のモチベーションを上げる、ということには強い疑問を感じるのです。
翻って学校内部での活動に焦点を当てても、結果だけを公表することで生徒の奮起を促そうとする施策は数多くあるような気がします。
もちろん、私自身は一定程度の競争は否定しませんし、むしろ友達=ライバルとの切磋琢磨があってこそ、学校という場での成長が促せると思っています。
が、問題は「経過」抜きの「結果のみの公表」であって、テストの結果などはその最たるものではないか、ということです。
先生方や学校はそれが良かれと思って実施しているのでしょうが、それが教育的にどんな効果があるのかについてより誠実に考察を加える必要があるように思います。
教育の成果は測りにくいもの。
ですから、テストというのはその成果を測るために必要なものではあります。
ただ、それは個々の学習の進捗を計測するためのものであって、誰かと比べるためのものではないはずです。
教育の原点に返って、テストのあり方も再考してみてもいいのかもしれませんね。
(文責:吉田)