以前には考えることすらなかったかもしれない、
学校そのものの存在意義。
それを問う機会が与えられたのは、
まさにコロナ禍があったからこそ、だと感じます。
日経新聞より。
(有料会員限定記事となっております。ご了承ください)
この記事は、熊本大学准教授・苫野一徳氏によるものです。
私自身、以前に同氏の著書(「学校」をつくり直す)を拝読し、
強く感銘を受けたのですが、今回の記事も主旨として
共感を覚える点が多くありました。
全文を引用したいくらいですが、皆様にはぜひ原典を当たっていただき、
ここではごくかいつまんだ内容を書かせていただきます。
最長3カ月にも及んだ一斉休校は、学校の存在意義を改めて考え直させるきっかけになった。一方で、1人1台の端末整備を実現させた「GIGAスクール構想」は、テクノロジーを駆使すれば、学校に行かずとも教育の機会を十分に整えることができるのではないかという議論を喚起した。
さらに今年1月には、デジタル庁がまとめた「教育データ利活用ロードマップ」で「誰もが、いつでもどこからでも、誰とでも、自分らしく学べる社会」の実現を目指すことがうたわれた。今や私たちは、学校に子どもを集めなくとも、すべての子どもの学習を保障することが可能な時代に突入しつつあるのだ。
学校に集まって学ぶ必要がない、となると、
なぜ学校が必要なのか?という問いに至るのはごく自然なことでしょう。
私自身も、コロナ禍によって「学校はなくてもいいのでは?」と、
その逆の解を期待しつつ自分に問う機会が何度もありました。
まずは「これまでの学校の当たり前」を改めて認識しておきましょう。
苫野氏は、これまでの教育システムを
「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、
同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」システム、
と表現し、
「みんなで同じことを同じペースで勉強していれば、
それについていけない子が構造的に生み出される」
「同じ年生まれの人たちだけからなる同質性の高い集団は、
異質性を排除する力学を強化する」
と指摘します。そしてその意味からすると、
「誰もが、いつでも誰とでも学べる社会」の実現は、
確かに目指すべき近未来の教育のビジョンである、とおっしゃいます。
であれば、やはり学校は必要ないのでしょうか。
いやそうではないのです。
人類は、1万年以上の長きにわたって、凄惨な命の奪い合いや、ごく一部の人が大多数の人々を支配する時代を生きてきた。今日の民主主義は、そのような歴史を何とか終わらせるために、最近になってようやく登場したアイデアである。
もし、人類が平和に、自由に生きたいと願うのならば、私たちはまず、お互いの自由を認め合う必要がある。そして、一部の支配者ではなく、対等な市民たちの手によって共に社会を築いていくほかにない。
これを「自由の相互承認」の原理という。現代の民主主義の最も根幹をなす考えであり、人類史上最も偉大な発明の一つであるといっていい。実際、人類の多くは今日、政治的・社会的自由を手に入れ、そして意外かもしれないが、この2~3世紀を通して戦争は確実に減少したのだ。
この「自由の相互承認」を実現するための、最も重要な制度。それこそが学校教育にほかならない。お互いの自由を尊重し、この社会を共につくり合うこと。学校は本来このことをこそ、子どもたちに教える場でなければならないのだ。
近時話題となっている校則の見直しは、
そういった考えからするとそのひとつの表現型、と言えるかもしれません。
経済産業省が推進している「未来の教室」実証事業には
「みんなのルールメイキング」という目玉事業がありますが、
互いを認め合い、「自分たちの社会は自分たちでつくる」市民を育むために、
子ども自身が「自分たちの学校は自分たちでつくる」経験を積むことは
重要な学校の役割と言えます。
自治体でもそのような取り組みを推進するケースが出てきていて、
下の図にある熊本市もその一例です。
このように考えれば、校則見直しはあくまでも一例でしかない、
と理解できます。苫野氏はこう述べています。
重要なことは学校が、大人も子どもも、お互いを対等な存在として認め合い、対話を通した合意形成やコミュニティーづくりの経験を積む場になる必要があるということだ。逆にいえば、このことが実現されなければ、学校はもはやその存在意義を主張することができないだろう。
民主主義の土台としての学校。今こそ学校は、この自らの本質に立ち戻ることを求められているのだ。
さて、貴校園は民主主義の土台としての本質を全うできていますか。
まさか、抑圧や忖度の温床になってはいないでしょうか。
今こそ、貴校園の存在意義を問う好機だと感じます。
(文責:吉田)