週の初めから少々重いテーマですがご容赦ください。
信頼のために自己開示が重要であることを再認識させられます。
日経新聞より。
中央教育審議会の大学分科会や教学マネジメント特別委員会などで
大学の情報公開の議論に関わってきておられています。
そして、その中で「大学と社会の分断」を感じた、とおっしゃっています。
大学も社会もお互いに理解しあうための十分な情報を発信していない。それどころか、自分たちは十分情報を発信しているのに相手がそれを理解していないと感じる"すれ違い"さえ起きている。このままでは情報ギャップがさらに深刻になり、相互不信が高まるばかりだろう。
産業界は「今の大学は産業界のニーズに合った人材を育成していない」と批判し、
大学側は「産業界の求める人材像は抽象的でわかりにくい」と不満を述べる。
特に人文社会系の学生に対してその感が強い、
と小林教授は書いておられます。
産業界にも大学側にも反省すべきことはあるのでしょうが、
今回の記事では大学側における改善の視点で、
いくつか提案がなされています。
その基軸は「情報公開を十分にせよ」ということのようです。
社会が大学に抱く不満は、一部を除いて情報公開に消極的な大学が多いことだ。それなのに多くの大学は、自分たちは既に十分な情報を公開していると思い込んでいる。これでは相互不信が高まって当然だ。事態は深刻である。
厳しい口調ですが、思い当たる点も確かにあります。
記事にもあるのですが、例えば大学ポートレート。
個々の大学の情報が一覧できるのはいいのですが、
情報量が十分でないだけでなく、他大学との比較がとてもしづらく、
見る側のニーズには適っていない印象が強いです。
安易な比較は誤った理解につながる、ということなのでしょうが、
例えば納付金等についてはある程度比較できないと選べない、
という弊害もあるような気がします。
ただし、教育効果の情報公開には当然難しさもあります。
この点についても、記事に指摘があります。
一方で、特別委員会では学修成果の可視化は非常に困難で測定しがたいため、定量的な指標にはなじまないことも強調した。大学側には企業のKPI(キー・パフォーマンス・インジケーター)のような定量的な指標は、一元的な大学評価につながり危険だという考えが強いからだ。これまでも定量的な指標を設けた結果、表面的に数字のつじつまを合わせる"やったふり"が横行してきたという反省もある。
いくら情報公開が重要だといっても、できないことはできないと大学側は明確にすべきなのだ。かといって、できない理由を並べ立てるだけでは社会の理解は得られない。その塩梅(あんばい)が難しい。
公開を進めるには各大学の創意工夫が欠かせない。例えば、中退率の公表は風評被害を出すという大学の反対論が強い。しかし、同じ中退でも転学や就職など進路変更に伴うポジティブな中退もある。単位修得不足などネガティブな中退であっても、大学がポリシーとして厳格に成績を評価した結果ということもある。理由別にきちんと説明することが重要なのであり、それが説明責任を果たすということなのだ。
教育機関の中ではそれでもまだ大学が進んでいる方、といえるかもしれません。
教育機関が本当の意味で社会から信頼を得るためには、
一定水準の情報公開が欠かせない、と私も思います。
その形はまだ未確定ですが、私学においては、
自らその形を作っていくような取り組みを進めたいものです。
(文責:吉田)