大学入試改革はここ数年の大きなトピックでしたが、
先日、土壇場になって制度の変更が公のものとなりました。
このことについて、日経新聞ではこんな記事があがっています。
(有料会員限定記事となっております。ご了承ください)
大学入試改革は高校教育を変える「てこ」になりえるのだろうか。15日開かれた入試のあり方に関する検討会議の議論を聞き、改めて浮かんだ疑問だ。
実はこの記事、下の記事に続けて掲載されたものです。
2020年度に始まる大学入学共通テストでの英語民間試験の活用見送りなどを受け、文部科学省が新設した大学入試のあり方に関する検討会議が(1月)15日、初会合を終えた。英語入試の方法についてこれまでの議論を生かすのか白紙にするのかなど、委員の間で基本的な認識のズレも見られた。検討期間は1年で、広く納得感を得られる議論になるかは不透明だ。
検討委員会では、
「入試が変われば高校教育が変わるという発想は思い込みだ」
という意見が出た一方で、
「高校と大学の教育をつなぐ入試(改革)の役割は一定程度ある」
という意見も出たとのこと。
入試は教育改革の手段となりうるのか?
そうすることがいいことなのか?あるいは、そうあるべきなのか?
記事にもある通り、この論点は高大接続改革の根本にあたるもので、
非常に重要な論点です。
てこにならないとする意見の根拠には入試の構造変化がある。最近ではAO・推薦入試組が入学者の約半分を占め、一般入試を受けない。少子化で大学は全入の時代に入った。こうした中で仮に大学入学共通テストに記述式問題を導入しても、影響を受けるのは受験生の一部にすぎない。
一方で入試改革に期待する声も根強い。「授業改善に熱心な高校教員の追い風になる」「入試にも出るよ、といえば生徒は勉強する」。一理あるようだが、入試といういわば外圧を頼む姿勢は裏を返せば学校不信、教師不信である。入試改革に教育現場へのメッセージを込めるにしても、抑制的であるべきではないか。
上記の中で、特に後半部分について私も同じように考えています。
つまり、「試験」という理由のために勉強する、
というのは本末転倒なのではないか、と。
入学した生徒や学生を育て上げるのが教育機関だとすると、
その教育内容をぜひ自らのものにしたいと思う生徒や学生を受け入れる、
そのために設けられるのが入試、なのでしょう。
難易度順に輪切りにされる、というのはあくまでも結果論であって、
むしろ最低限必要な学力(学習力?)を試すことに特化するのが
本来の入試の役割ではないか、と思うのです。
私学は各校園ごとに多様化しているようで、
入試を見る限り、実はそれほど多様化していないのかもしれません。
将来に向けて育て上げる人物像と、そのためのカリキュラム、
そしてそのための入試について、
真剣に考えるべき時がきているように思うのですがいかがでしょうか。
(文責:吉田)