この4月の初日に、読み応えのある記事が日本経済新聞に掲載されました。
政府主導の教育改革が迷走する理由が分かった気がします。
本日はその内容をかいつまんでお届けいたします。
ご興味があればぜひ原典をお読みください。
日経新聞より。
(有料会員限定記事となっております。ご了承ください)
「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」。
この答申では、AIやビッグデータなどの技術の飛躍的発展、
人生100年時代の到来といった未来の展望がなされ、それを踏まえた
「必要とされる人材と高等教育の目指すべき姿」、
すなわち
「専門性を有するだけではなく、思考力、判断力、俯瞰力、
表現力の基盤の上に、幅広い教養を身に付け、
高い公共性・倫理性を保持しつつ、時代の変化に合わせて
積極的に社会を支え、論理的思考力を持って社会を改善していく資質」
の育成という教育目標が設定されています。
この記事の筆者・苅谷剛彦教授は、
こうした「予測不可能な時代の到来」をふまえて、
予測しうる将来を展望し備えることはどのような政策領域でも重要である、
と断ったうえで、このように述べておられます。
教育政策の場合、「予測不可能な」未来を設定することで、教育の目標を位置づける論法に特徴がある。「予測不可能な」未来に準拠するかぎり、目標設定の根拠となるべき基準は、当然ながら、知りうることはできない。それゆえ、育成すべき資質はどれも抽象的な表現にとどまる。いかに育成するかの具体的手段も示されない。達成すべき目標自体が曖昧かつ多義的だからだ。
他方、これまで以上に高度な目標設定といえる「グランドデザイン」を実現すべき財政支援については、「財政の在り方を含めて社会全体で検討し、将来世代への投資として、必要な公的支援を確保していく必要がある」との具体性を欠いた提言にとどまる。
なるほど、ぼんやりした未来に向けて備えるべき資質はやはりぼんやりしがちで、
目標が曖昧になり、それを実現するための財政支援もぼんやりしてしまう、
ということなのでしょうか。
これをもって「演繹型思考」と呼んでおられるようです。
現状は、図(1人当たり高等教育費負担の推移)に示すように、1980年代以後、政府負担は減少し、家計負担が増え続ける。佐藤郁哉・同志社大学教授の表現を借りれば、「過剰期待と過小支援の矛盾」(佐藤編著前掲書)の露呈である。
予測不能の未来は印象論にならざるを得ず、
そのような印象論に基づく政策は抽象的になるのが必然。
抽象的かつ論拠の不明確な政策を現場に落とし込もうとすると、
各自が解釈(忖度?)しながら進めていくしかない…
解釈が多様化してしまうと、迷走するのは当然かもしれませんね。
EBPM(Evidence Based Policy Making)が一方で言われる中、
帰納的思考が存在しない施策が受け入れられるのは教育分野だからこそ、
とも言えそうです。
国策のみならず、各校園における企画立案においても、
演繹と帰納の両方からのアプローチを意識することの重要性に
改めて気づかされた記事でした。
(文責:吉田)