先日、ある私学の理事さんとのお話から。
その私学では新たに就任された理事長が、自分のことを理事長と呼ぶな、○○さんと呼べ、と号令を出されたとのこと。
その理事さん曰く、その取り組みはとてもいい、と。
ご自身も民間企業で長く勤められる中、「社長」「部長」と呼ぶのが当然という環境だったところ、あるとき経済団体の会合に参加され、受付にいた若い女性が、当該団体の会長のことを「さん」付けで呼んでいて、たいそう驚いた経験をお持ちでした。
「ずっと遠いところにいらっしゃると思っていた会長が、一気に近づいた気がした」
とおっしゃる理事さん。
この学校もそんな風土が根付いたら、と大きな期待を抱いていらっしゃいました。
「そのお話を聴いて、ひとつ思い出したことがあります」、と私が切り出しました。
思い出したこと、それは私学に関わるようになってすぐのこと。
校長先生、あるいは教頭先生から現場教員さんの紹介を受けることが続いたのですが、ほぼ例外なく、「こちらが○○先生です」というふうに紹介されたのです。
ん?なんか変な感じ?とは思ったのですが、何がおかしいのか分かったのは後になってから。身内に敬称を付けることって、ビジネスシーンではなかなかないことです。
実際に紹介を受ける以外にも、現場に関する質問を投げかけた時に「その件は○○先生がご存知なので…」とか、「○○先生がこないだおっしゃっていたのですが…」とか、組織外の私に対しても「○○先生」は当然のように登場します。
学校という場の特殊性を、肌で感じました。
この話を理事さんにお伝えしたところ、「そうだね、学校ってそういうこと、あるよね」との反応。
続けて「対保護者、対生徒のことを考えると、先生を呼び捨てにはしづらいのかもね」とも。確かにその通り、と膝を打ちました。
学校では接遇がなっていない―私はそういう結論に持っていこうとは思いません。
むしろ、学校の教職員さんは普段から保護者の皆さんとの接点が一定以上あるからか、言葉遣いや態度は非常に丁寧であることが多いのが私の実感です。
私はこのことを考えるときに、同じ組織に属する他の教員さんに対する「身内感」が薄いのでは、という点が気になります。
隣に座る教員さんは、他のクラスの担任さん。それは同僚というよりも、「自分とは別の先生」という存在であることが優先しているのでは…と、やや穿った見方までしてしまいそうになります。
学校に関わるようになって、学校は「組織」たり得ているか、というのが私の大切な着眼点のひとつになりました。
バーナードという経営学者によれば、組織には「共通目的」「協働意欲」「コミュニケーション」が必要。これらが欠けると、それは組織ではなく、単なる人の集合体、すなわち「集団」になってしまいます。
身内にも先生という呼称を使う、ということの理由。
なかなか奥深いテーマです。