寝ても覚めても学校のこと。~学校経営の経営課題(人事・財務・募集・施設などなど)について考えるブログ~

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学校運営の改善の在り方等に関する調査研究協力者会議(第4回) 議事要旨

平成22年12月3日(金)開催の標記会議の議事要旨を、以下文部科学省ホームページより抜粋引用します。

【議題】

1. 「新しい公共」型学校について

2. その他

【議事要旨】(委員からの発言のみ引用、太字は筆者による)

● たたき台に追加すべき視点がいくつかある。

 まず、「新しい公共」宣言では「政府が独占していた領域を「新しい公共」に開」くと言っている。地域の問題を学校の場所や施設を使って解決するという視点があると思う。例えば、学校の施設を使った総合型スポーツクラブや参加型保育といったものが考えられる。学校の施設を開放する際には、学校教育に支障が生じないように、利用者が偏らないように、混乱が起きないように、市民側が自制心とマネジメント機能を発揮するなど、学校と地域の「協働」が必要になる。これは基本的には場所を貸すものであり、運営は住民が行うことになる。既に、地域によっては校庭や体育館といった施設の管理運営をNPOに任せてうまく行っている例も出てきている。

 また、中学校区を単位とした取組という提案は良いと思うが、中学校区でのコミュニティ・スクールや、小中一貫といった連携の取組を進めるためにはコーディネートする人材が必要となる。小中一貫となった場合、たとえば、民間から非常勤でコーディネート担当の副校長を雇用する予算をつける措置をとると、「協働の場」作りを促進するという意味で、望ましい地域型学校に転換するインセンティブになる。全国一律にやる必要はないが、ポイントを押さえて文部科学省としてもそのための予算を投入するなど、汗をかく姿勢を見せることで、市民の側にもしっかりやってくれと言える「協働の場」ができる。国や教育委員会のコミットメントを深くすることで、市民もそれに応ずる気持ちになるのではないか。

● 学校のガバナンスの在り方が問われる中で、国や都道府県、市町村のそれぞれの責任といったものをどのように位置づけるのかという議論が必要だと思う。

 総論としてはたたき台の理念で良いと思うが、実態として都市部と山間僻地では大きく異なる。換言すると、山間僻地で問われている学力は、都市部における学力とは異なり、地域そのものの活性化などの観点と結びつけて議論する必要がある。地域の後継者として、もっと第1次産業と結びつけた教育の在り方を追求していく必要があると思う。

● 「新しい公共」型学校のねらいの箇所において、少子高齢化や情報化、国際化などが「新しい公共」型学校にどのようにつながっていくのかということが十分に記述されていない。グローバルな視点の中で、日本の子どもたちの教育をどうしていくのか、そしてそれが「新しい公共」型の学校の中でどのように具体化されるのかという議論が必要だと思う。

● 中教審のキャリア教育に関する答申案の中でも様々な関係者の協力というのが必要だという話が出ている。

 現在打たれている様々な施策と、この「新しい公共」型学校との関連というものも検討する必要性があるのではないかと思う。

● コミュニティ・スクールや学校支援地域本部などに既に取り組んでいる現場は、今まで実際に自分たちが一生懸命取り組んできたことと、この「新しい公共」という理念・概念とがどのように結びつくのか分らず、不安な状態である。今までなされてきた取組について整理をした上で、「新しい公共」の理念とどういうふうに結びつけていくのか、理論的な整理をする必要がある。

● 「新しい公共」型学校として提起しようとしていることが、既存の様々な取組に新しく何かをつけ加えることなのか、あるいは、従来の取組を再組織することなのか、そこの脈絡をはっきりさせることも、1つの提起の仕方である。

● 新しい公共」型学校の定義があいまい。わかりやすい定義づけをすることが必要だと思う。

 自分としては、これまでの様々な取組を、新しい理念の下で再構築するものと理解しているが、そうであれば明確にそう示さないと、既存の取組のブラッシュアップに止まってしまう可能性がある。

 また、「持続的」という表現については、あまり税金を使わずにやることを想定していると理解するが、そうすると「元気な日本復活特別枠」で要求している予算の使い方をよく考える必要がある。特別枠での評価はどうだったのか。

● 学校を「場」という言葉で表しているが、外の人間から見ると学校はとても大きいので、漠然と学校といっても、どこにいればいいのかわからない。地域交流室やコミュニティハウスといった、地域住民やNPOが運営できる公設民営的な空間を設けていくことが必要だと思う。

 「場」には情報と人が集まってくるので、会議では出てこないような地域の課題や人材が出てくる。ただし、ハードの提供だけでソフトがつながらないやり方はいけない。

● 学校と地域の連携のための仕組みはたくさんあるが、実態としてなかなか協働が進まなかったのは、学校の中に、地域に一歩踏み込んでいく力がなかったからではないか。

 学校評価や第三者評価といったツールをうまく使って、学校を外に、公共に向かって押し出していく方法を議論していく必要があると思う。

● 資源の集中と分散という観点からすると、これまでは学校の持っている資源を外へ開いていくという流れがあったが、これからはむしろ資源を学校に集中させることだと捉えることもできる。学校を核にして、関係の教育施設をどういうふうにつなげていくのかということも議論する必要がある。

● 資源の集中という議論になると、資源の豊かな地域とそうでない地域の格差の問題が隠れてしまう。

 学校運営協議会制度の導入など、ガバナンスのあり方を変える過渡期の中で、その成果や課題をきちんと整理をした上で政策判断をしていくことが重要であり、資源の話だけを議論することは危険だと思う。

● 資源の集中というよりも、資源のネットワークを学校を中心に作っていくことが良いのではないか。

 子どもの教育の問題を考えるときには、学校だけではなく子どもを取り巻く様々な問題があるので、当然にコミュニティの問題や社会の問題についても解決を図っていくようなことを考えないといけない。そういうものも含めた問題解決の話し合いの場として学校が機能するとともに、地域の関係機関がネットワークを作り、子どもの問題だけでなく、地域や社会の問題についても議論し、問題解決を図っていく段階になっていくだろうと思う。 しかし現実には、既存の取組ですら形骸化しているところもある。現在の取組を徹底してやっていくのか、「新しい公共」の理念の下に一挙に再構成してやっていくのか、整理が必要だと思う。

● 日本の公立学校は少子化の中で減ってきているが、それでもどんなところにもあり、優秀でまじめな教員が配置されて、全国で社会を支えるインフラとなっている。世界に誇る画期的なシステムである。

 これまで学校は地域の人に手伝ってもらおうということは随分やってきた。これからは学校が、地域の課題を解決するための「協働の場」になるという視点が必要である。

 つまり、学校は教育を行うだけでなく、地域の問題を解決するネットワークの場となるということだ。しかし、その役割を教員が担うことを求めているのではない。教員が参加するとしても、地域の一員として希望者が参加するだけとし、また、学校や教育委員会は場を提供するためのルールを作る機能を果たすということ。

 学校は、地域に教育のための支援を求めるばかりではなく、地域の問題解決の場として機能することを通じて、学校のことにも協力してくれる人材を育てていくということが、今回の「新しい公共」型学校だと理解している。その際には、国は、適切な予算を提供することでその役割を果たす。このようなことは国民に分かりやすく、共感を得られやすいのではないか。

● 「新しい公共」型学校には、子どものための学校であるだけでなく、成人教育のための機能を加えていく必要があるのではないか。「子どもの将来のため」という目標に加えて、成人教育の場としても意識していく必要がある。

 例えば、学校支援ボランティアは、学校や子どもたちのために活動しながら、無自覚なところで自ら学習している。これは潜在的で、無意図的であろうが、結果的に学習的な効果がある。学校のため、子どものためとあまり限定してしまうと、地域の方に下請感が出てしまう。

 また、地域の方が入ることによって、学校が予想しなかった子どもの社会性の育ちなどの付加価値が生まれたり、地域が活性化したりするという効果が出ているところもある。

 従来のサークル型、公民館型の成人教育とは異なる、新しいタイプの成人教育の場としての機能を今後はもう少し学校に対して期待していいのではないか。

● 学校や教員の役割や、その施設設備の位置付けを改めて考える必要があるのではないか。イギリスの学校理事は、学校が自分たちの地域にあるものであり、地域の後継者を育てているという意識から、学校に貢献している。大人が子どもたちに何を伝えるのか、あるいは自分たちの税金で建てられている学校という施設をどのように社会全体のものとして使うかという議論がある。

 学校は子どもだけのためのものではないし、教員だけが教育を独占するのではないということを、どこかで整理する必要があるのではないか。

● 日本でも学校を支援したいという人は多いが、学校の運営にまで口出しするということには躊躇する人が多い。

 これからは、ただ学校を後援するということではなく、パートナーシップという考え方に立たないといけない。

● 学校は敷居が高い、父兄が遠慮をするという構図の逆もあるのではないか。

 コミュニティ・スクールの中には、理事会や保護者側から、教職員組合が学校の動きを鈍くしているという不満が出ているところもあり、教員側にはそういう不満に対する抵抗感がある。イギリスでも組合が学校理事会制度に反対していたという経緯がある。組合は無視できない要素ではないか。

 また、「新しい公共」型学校というものは、いずれスローガンになるのだろうが、スローガンがひとり歩きしたときの怖さも意識しなければいけない。例えば、大阪の池田小学校の事件が起こった際も、多くの学校は、開かれた学校という理念に反するのではないかという考えから、十分な安全確保ができなかった。

● 学校支援地域本部は、学校を支援することが主眼で、コミュニティ・スクールのように学校の運営方針の承認や、教職員の任用について意見を出すことは求められていないので、全国的にも拡大している。

 私は、段階を踏んで、まず学校支援地域本部としての活動を通じて学校と地域の関係が成熟してから、制度化されたコミュニティ・スクールになるのが良いのではないかと考えている。

● 段階を踏む中で地域住民が学習するプロセスがあると思うので、そこのところを整理していくことが必要なのではないか。

● 自分が関わっているコミュニティ・スクールでは、人事異動で新しく赴任してきた校長がコミュニティ・スクールとして学校が地域と一緒につくってきたことを全く無視し、自分が校長としてやりたいことを持ち出してきたため、地域住民が教育委員会に直訴したことがある。校長が無理解で、地域との協力関係を無視するような場合は、保護者や地域が住民として、あるいは有権者として、教育委員会に意見を言っても良いのではないかと思う。そういった意見を教育委員会がどう受け止めるのか、あるいはどのように地域や学校に説明していくのかが、コミュニティ・スクールの在り方に大きく関わる問題だと思う。

● 本市では全校をコミュニティ・スクールとして指定しており、やるかやらないかという選択肢は校長にはない。新任校長へは教育委員会として研修を行い、着任から1年経ったら、学校運営協議会の会長や委員の前でプレゼンテーションをやらせている。

 他方、コミュニティ・スクールがきちんと機能すれば、ある意味で教育委員が学校に入っている状態とも言えるので、教育委員会の存在意義は必然的に低下していくことになると考えている。

● これからは国から地方だけでなく、地方の中で教育委員会から校長に権限が委譲されていくのではないか。

 そうなると、校長がリーダーシップを発揮しすぎた場合に何らかの形でモニタリングするような仕組みが必要になってくる。教育委員会の役割が縮小するとすれば学校があまり独善的にならないようにするために、学校運営協議会のような仕組みが必要である。

 学校運営協議会が広がらない理由の一つとして、学校評議員との役割の重複があるのではないか。

● 企業のガバナンスは、株主主権やステークホルダーとの関わりということで論じられるが、学校のガバナンスについてもステークホルダーである地域住民、教員、労働組合教育委員会の関係を整理し、ガバナンスの仕組みを見える形にしていく必要がある。

● 学校のガバナンスを考える際には、学校評価の仕組みをどのようにリンクさせるかが重要である。これまでの学校評価はチェック機能というよりも学校の組織運営に重点を置いてきた。学校ガバナンスの仕組みをコントロールするものとしては、現行の学校評価ガイドライン学校評価システムでは不十分である。

● 中学校区という地域単位については、地域の実情を考慮する必要がある。地域によっては必ずしも典型的な2小1中ということにはなっていないし、都市部で私立中学校に進学する児童が多い場合などもある。

● 小中一貫や小中連携で問題となるのは、複数の校長が存在すること。総括の役割を担う校長を中学校区で1人置き、すべての学校に副校長を置くというような仕組みを想定することも考えられる。

● 中学校区という単位は納得できる単位だと思う。中学校区で連携して何かする際には、小学校長よりも中学校長がイニシアチブを取ると円滑に物事が進むように感じる。

● 中学校の校長の役割が、1校のマネジメントというところから、他校との関係や、中学校区をエリアにした中でのものに次第に変わってきている。そのようなリーダーの在り方を担保するには、従来の組織や任用の在り方を見直していく必要もあるのではないか。

● 本市では中学校区単位で学園を置いて小中一貫教育を行っている。学園長はできれば中学校の校長が望ましいと思っているが、実際には中学校長が学園長をしているのは1人だけで、他は小学校長である。結局のところ、リーダーシップや個人の資質能力の問題となってしまう。そうなると、現在の人事制度ではうまくいかないこともある。

● 地域独自の教育を行っている場合、広域人事で異動してくる教員にそれを理解させるのは苦労する。人事問題は「新しい公共」型学校をつくるときの1つのベースにもなるものだと思うので、そのことについても視野に入れておかないといけない。

● 広域人事では、過疎地に配属されたら、なるべく早く県庁所在地に戻りたいと考える教員が多い。そういう教員に地域連携を進めてほしいといっても、あまり上手くいかない。赴任する教員を保護者が面接したり、地元出身者の教員の枠を設けるなどの工夫を求める動きもあると聞く。単にコミュニティ・スクールのシステムを導入するだけではうまくいかないと思う。

● 学校の人事にかかわることについては、学校運営協議会の方針として、しっかりやるところもあっていいし、ゆっくりやるところもあっていい。すべてが前向きで積極的ということではなく、”遠慮がち”な参加型というアプローチもあって良いのではないか。

● 学校と地域の協働の中では、子どもや地域住民が成長するのと同時に、教員も成長する。このような、三者が人間的に成長するという意義を強調すべき。

● この新しい姿の学校について、教員だけが担うものではないというニュアンスを、教員にいい意味で受けとめてもらえるようなメッセージとすることが大切である。いろいろな人が、様々な形で学校を核にしながら関わっていき、それが関係づくりにつながっていくことになるというメッセージの送り方が必要である。

 教員にも新たな視野が求められるということを考えると、教員養成の観点からも、社会教育的な考え方をどのように学ばせるかということなども検討していく必要があるのではないか。

● 教員へのメッセージとしては、また新しい仕事や役割が来て、忙しくなるという負担感が増えるものではなく、教師としてもっと豊かな指導力の発揮につながり、そのことが教師という仕事のおもしろさや、やりがいにつながるんだということをどう伝えられるかが重要である。

多くの発言が列記されており読みにくいのですが、「新しい公共」型学校について、その枠組を定めていく観点から発言がなされているようです。現時点の方向性は「小中連携」「地域と教員との相互理解を進めること」、今後煮詰めていく部部は「具体的な学校-地域の連携方法」「地域ごとの特性への対応」「ガバナンス(統治。「学校運営」を指す言葉でしょう)」といったところになるのでしょうか。いずれにしても、公立校の存在意義は「平等な初等教育」から明らかに変革していく様相です。さて私学は…?公私問わず「学校」である限り、地域との関わりは不可避だと思うのですが。(JTC/吉田俊也)